2026-6-9 生成AI とのコンバット
ChatGPTやGeminiといった対話型の生成AIが当たり前の存在になった環境の中で、知的コンバットはもう人間同士だけで行われるものではなくなった。今や筆者のまわりでも、「壁打ち」と称しAIとの対話からアイデアの拡散や思考の収束を行っている人は多い。筆者自身は野中の言うほどガチな議論をAIとしたことはまだない。が、もしやるとすればどうなるだろう。人間同士のコンバットなら個人の信念や価値観、すなわち「主観」のぶつかり合いだが、相手がAIとなるとかなり様相が違ってきそうだ。AIがぶつけてくるのは膨大なデータパターン、言い換えれば「究極の客観」である。
まず、コンバット自体が全く異質のコンテクストのぶつかり合いになる。人間側の生々しい身体的経験や直感に対し、AIは全人類的な形式知の結晶で対抗する。この激突はむしろ人間同士のそれより衝撃が強そうだ。AIは心が折れることはないから、人間側がみじんに消し飛ぶか、それとも人とのコンバットでは得られなかった景色にたどり着くか、どちらかであるような気がする。
もうひとつ、人間同士だとどうしても起きる「忖度」や「空気を読む」という現象がなくなる。AIはこちらの感情に忖度せず、容赦なく非合理や矛盾を突くだろう。こちらも「野生の主観」を挑発し、コンバットをより荒れたものにするはずである。もっとも、最近のAI は使用者の思考パターンや好みを学習し、対話をそこに寄せてくるから、これもある種の忖度と言えなくもないが。
人間同士のコンバットなら確実に生じる「熱」はない。口角泡を飛ばし、声を荒げ、時には胸ぐらを掴み合うあの暑苦しさは感じようもない。もちろん議論を終えた後のある種の充足感や、相手との絆が深まった実感もない。筆者の想像だが、野中の説いた知的コンバットのイメージには、こうした熱、汗のにおい、または後で一緒に飲むビールの味、といったものが多分に含まれているように思う。AIとさんざんやり合った後のビールがうまくて、その記憶が議論の中身とともに、新たな暗黙知として体にしみ込んでいく・・・、といった情景は、筆者にはちょっと想像しにくい。
時間や場所を選ばず、どこまでも議論の相手をしてくれるAIは間違いなく便利である。野中流のコンバットでは得られなかったはずの新しい知識が創造される可能性はおおいにあるし、実際にもうたくさん生まれているのだろう。少し視点を変えて、アクターネットワーク理論のフレームを通して見ると、生成AI は現時点における最高のアクターと言えるだろう。突如我々の前に現れたこのアクターとのかかわり方によって、世の中のありようが大きく変化していくことは間違いない。
それでも、と思う。人は人である限り、人間同士の暑苦しい議論をやめないだろう。どちらの方法が良い知恵を生むか、といった効率の話より、それは社会的な動物としての本能だから、という説明の方が筆者にはしっくりくる。
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